本日のマグネットです。

ポーランドのクラクフで購入した
ユダヤ教徒のマグネット。

今回の旅の最大の目的。
それはタイトルにもあるように
アウシュビッツ強制収容所へ行くこと。

第二次世界大戦中に、ドイツが
人種差別的な抑圧政策のために多くの犠牲者を出した
最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所です。
負の世界遺産。

東京⇔パリのエアチケットを予約した後、
いの一番にアウシュビッツ公認で唯一の日本人ガイド、
中谷剛さんにメールをしました。

テレビや雑誌、ネット媒体にも度々出ていらっしゃる方です。

直接のメールのやり取りで
幸運にもこちらの希望日に
私たちのガイドをしてくださることになりました。

中谷さんがNGだったら行き先が変わっていたかもしれません。

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本日の旅行記には
一部、衝撃的な画像も含まれていますので
閲覧注意とさせて頂きます。
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クラクフ市内からアウシュビッツまでバスで移動。
約1時間半ほどの道のりです。

到着し、とりあえず軽くランチを取っておきました。
周辺には、小さなスナックバーと
レストランが1店舗しかありません。


待ちあわせ時間の13時50分に
入口付近で中谷さんの姿を見つけました。

もう1組も参加したので
中谷さん含め計5名で周ります。

まずは厳重なセキュリティーゲートを通る。
バッグのサイズに関しては本当に厳しく、
A4サイズの紙をバッグにあてて確認されます。
※A4サイズ以上は預けなければなりません。

いよいよ中へ。

ARBEIT MACHT FREI
「労働は自由への道」


強制収容所のスローガンとして用いていましたが、
実際は、自由になるどころか
毎日11時間、夏季はそれ以上、
死ぬまで働かされたのでした。

ARBEITの「B」が反転しているのは
被収容者のせめてもの抵抗と言われているそうです。


全てカラーとモノクロで撮影。

被収容者の音楽家に演奏させ
行進の列を乱さないようにコントロール。

入り口周辺にユダヤ人が
当時を思い出して描いたとされる絵(の写真)がありました。

どれだけ過酷だったかを
物語っています。

被収容者の収容棟は
本人たちが建てたもの。


赤レンガは1つずつ積み上げたものだそうです。
建築作業は強制労働の中でも最も厳しいものの1つで
1ヶ月~3ヶ月でほとんどの人が命を落としました。


なぜポーランドだったのか?

戦前にポーランド陸軍の宿営地があった

ここの原野が最適だと考えられました。

更に、鉄道輸送のジャンクションであり

既に通信網も整っていたから。


被収容者が植えたポプラの木が残っているところもあります。
戦後70年、こんなに高く、高く成長。


一部建物の中に入ることができます。
ここからはその展示物です。


犠牲者の数が記載されていました。

1940年から45年に、少なくとも130万人の犠牲者。
・110万人のユダヤ人
・14万~15万のポーランド人
・23000人のジブシー

被収容者の服。


収容者は体に番号を彫られました。


没収されたカバン。

赤レンガは1つずつ積み上げたものだそうです。

アウシュビッツに到着した際、
持ち物は全て没収されるのですが、
「後で自分のモノと分かるように」
と名前を書かせました。

実際は「殺されることを悟られないように。」
二度と手元に戻ることはありませんでした。

遺留品の靴。

赤レンガは1つずつ積み上げたものだそうです。

女の子のものでしょうか。
小さな赤い靴がありました。

メガネ。


そして義肢・義足までも回収されたんですね。

こんな屈辱・・・本当にひどすぎます。

希望を捨てないために持ってきた食器。

「安住の地を与える」と言われて
たいていが全財産を持ってきていたのだそう。

どんな気持ちだったのか。
私には想像がつきません・・・。

収容所に到着した時の
ユダヤ人の怯えた顔。


チクロンBの容器。

赤レンガは1つずつ積み上げたものだそうです。


この使われ方は後程。


犠牲者の方々の写真。


収容された日付と亡くなった日付が
記載されていました。

女性は髪の毛を剃られています。

そして、これはその髪の毛です。

髪の毛は撮影禁止エリアにあります。
この写真はお借りしたものです。

髪の毛を布に編み込み生産していました。


髪の毛だけではなく、金歯など
使える物は全て剥ぎ取り
金物として加工し、
市場に出して、その利益は国家資金にしました。


死を量産していた・・・ということです。

建物の周りには有刺鉄線が張り巡らされていて
高圧電流を流し、脱走を防いでいました。


自ら身を投げて自殺を図る人も…。

それだけ、この中が地獄だったということです。

監視塔の前には、止まれの看板

そのドクロのサインの先に入ると
棟から銃殺されたそうです。

この時の後ろの雲が、本当に怖かった。

このガラス窓から容赦なく射殺したそうです。

中庭にある死の壁。

多くの人が銃殺された場所。
一番小さな犠牲者は9歳のポーランド人。
ただドイツ人の子どもと遊ぼうとしただけで射殺されました。

この壁には弾痕が残っています。

ここで亡くなった方々は3千人から1万人と言われていて、
今でも献花が絶えないそうです。

両側の収容棟には目隠しの窓枠が。

他の収容者には知られないように
処刑に使った銃には消音装置をつけていたとか。

ホロコーストが行われた
ガス室と焼却炉。

建物は壊されてしまったのですが、
当時の設計図に基づいて復元されたもの。

金属製部品はオリジナルだそうです。

ガス室。

収容者には
「シャワーを浴びる」
と嘘をつき、裸にさせ
このガス室へ誘導しました。

この天井には小さなが穴があいています。

この穴から、先ほどの展示室にあった
チクロンBの缶を投げ入れます。
チクロンBは殺虫剤として登録されていますが、毒ガスです。

一度に数百名の人が詰め込まれ、
外から鍵をかけられ、
そして虐殺されました。

床から立ち上るガスから逃れるために
この穴に向かって上へ上へ
人々の遺体は山のような形になっていたそうです。

その遺体を被収容者がはぎとり、
すぐ横にある火葬場で焼きます。

何もかもが効率的すぎて言葉になりません。

指令を出すのはナチスですが、
実際に手を汚すのは、被収容者本人たち。

収容者たちにはそれぞれ役割があり
死体搬出するSS衛星隊員(特命労働隊ゾンダーコマンド)などは
食事や住まいも優遇される人もいたそうです。

精神的な満足感を与え、
暴動が起こることを抑止していたんですね。

全てがシステマチックだったわけです。
ナチスは全て綿密に計画し実行していたのでしょうね。

ルドルフ・ヘス(初代司令官)の処刑台。


第二次世界大戦中にアウシュヴィッツ強制収容所の所長だった人。
ドイツ敗戦後、戦犯として絞首刑になりました。

この後はビルケナウ強制収容所(第二収容所)へ。