マグネットぷっちん★旅行記とご当地マグネット

旅行記とその旅先で購入したマグネットをご紹介。

カテゴリ:▼ヨーロッパ マグネット > ポーランド

本日のマグネットは
ポーランドのクラクフのものです。

こういう長細い建物が多かったですね。

アウシュビッツから街に戻ってきました。
18時頃になっていたので夕食を。

スマコウィキ(Smakolyki)。
お手頃で美味しいレストランだそうです。

店内は中々オシャレでした。


カフェっぽいですね。

ポーランドの学生らしき人たちがいたので
地元民にも愛されてるレストランなのかな?

旦那はもちろんビール。

この旅のビールコレクションができそうだ。

ロールキャベツとジュレック(スープ)

ジュレックってポーランドでは
お味噌汁みたいな存在。
どちらも結構美味しかったです。
特にここのジュレックはオススメです。

ポテトのパンケーキなど
人気メニューはことごとく売り切れって…。
そんなことばっかりだな。

この2品だけ頂いて、さくっとお店を出ちゃいました。
でもお財布に優しくて
中々美味しかったのでオススメです。

その後、タンスカフェにピットイン。

カフェ・シャフェ (Cafe Szafe)
奇抜なエントランス!
なんだか入店するのに躊躇しちゃう。w

中はもっとすごいことになってました。

目がチカチカします。

タンスの中に座ることができるようになってますが、
座り心地は悪かった。

店内は薄暗いので
こんなキッチュな世界でもちょっと落ち着く。爆

こちらはカウンター。

カウンターでオーダーするシステムになってます。

スタッフは外でタバコ吸ってました。

何から何までアナーキー。

カシスジュースとレモンケーキ。

ガイドブックに載ってたので
頼んでみましたが
脳天直撃する甘さで半分も食べられなかった。
カシスジュースもまた同様に…。

そして就寝。

次の日。
クラクフ最終日です。

フライトまでまだ時間があったので
最後のお買い物タイム。

またまた天候に恵まれました。
最近の旅行では珍しいな。

街中が美術館みたいになってます。素敵☆

絵になるな~。

路地も素敵です。


ポーランドの食器屋さんへ。


ここでボールとスプーンをゲットしました。

日本まで割れませんように!!
おみやげ編は最後にまとめて紹介します。

最後に屋台でobwarzankiを買い食い。

な、なんて読むんだ?
オ、オブヴァジャネク??

ごまにしてみました。

なんだろ。ベーグルみたいな?

1個50円なら合格ですね。
小腹すいたらとりあえず
お腹に入れとくのもアリです。

そして空港に向かいます。
まずはバス停で切符を購入。


バスの中で打刻します。


切符がこちら。


空港に到着~♪

かなり小さな空港。
最後に軽くランチを食べました。

さよなら、クラクフ。

多分、もうここに来ることはないだろうな。
(悪い意味じゃなくて…)

ゲート前は激混みでした。

座るところもありません。

あんまり暇なのでお土産買っちゃいました。

ちなみにマグネットもあってゲット。
(この頃はリミッターが外れて買いまくり)

そしてついにフライトタイム。

ここのところ、ディレイばっかりだったので
オンタイムは久々だった気がする。

Easy Jetでパリへ一旦戻ります。

アウシュビッツの旅行記で
燃え尽き症候群になっちゃって
今回の日記はかなりあっさり塩味。

ま、メリハリってことで許してちょんまげ。

また明日~♪


本日のマグネットはポーランドはクラクフのものです。

織物会館(Sukiennice)のデザイン。

アウシュヴィッツ強制収容所のあとは
ビルケナウ強制収容所(第二強制収容所)に向かいます。

3キロ離れているため、無料シャトルで移動。

こちらは帰りに撮影したものなので
アウシュビッツ行きだけど。

1941年10月、ブジェジンカ村に
被収容者増を補うため、
「第二強制収容所ビルケナウ」が開所。

東京ドーム約37個分の広さで、
300以上の施設がありました。
ピーク時の1944年には90,000人が収容。

唐沢verの『白い巨塔』のロケ地。

映画『シンドラーのリスト』は
この門の外側にセットを組んだのだそうです。

死の門。




妖怪が人間を吸い込む口のように見える…。


ヨーロッパ各地からユダヤ人を
収容所まで乗せてきた貨車。

この中に何十人ものユダヤ人が詰め込まれ
ビルケナウに連れてこられました。

窓もない、水も与えられないこの状況で
何日も走っていたために
死者がでることもあった、と。


ビルケナウの降車場(ランペ)で行われた死の選別。

貨物列車からおろされるとまず男女に分けられます。

そこにドイツ人医師(黄色い丸)が顔色を確かめながら
「右へ行け」
「左へ行け」・・・と指図。

どちらかがゲットーで
どちらかが「シャワー」と称したガス室行き。

労働力として選ばれたのは到着した人のわずか25%で
残りの7割は降車直後に、殺されました。

これが『死の選別』です。

まさに上記の写真の場所。

反対側から撮影してしまったので
建物が写っていませんが
写真通りの風景でした。

そして第二クレマトリウム残骸

ガス室と焼却炉。

終戦後、ドイツ軍が撤退の際、
証拠隠滅のために破壊しました。


撤退まで時間もなかったし、
ドイツの建築技術の高さがあだとなり、
完全に破壊することはできませんでした。

おそらくここが「シャワー室」と称した
ガス室だったところ。

シャワーの蛇口までつけて
被収容者に信じ込ませようとしていました。

中谷さんいはく
「シャワーを浴びるということに関しては
信じていた人もいれば、
噂で殺される事実を知っていた人もいただろう」

とのことでした。

知っていた人たちの恐怖は計り知れません。

当時300棟あったバラック。
ほぼ完璧な形で残っているのは
45棟のレンガ造り、22棟の木造の囚人棟のみです。


本当に広大な敷地なので
草刈りはじめ、メンテナンスが非常に大変だそうです。

ちなみに
アウシュヴィッツ強制収容所跡地に関する法律があり
「ヒトラー収容所」とその建築物及び設備は
当時のまま保存されなければならないという規定があります。

犠牲者のお墓でもあるこの負の遺産を守ろうと
各国から多くのボランティアが参加。
ドイツ人の若者も多く協力しています。

現存しているバラックの中を一部見学。


こちらはベッドです。


この粗末な造りの一段に、
5~7名が寝ていました。


マットなんて当然なくて、
藁をひいてくれていれば良い方だったそうです。

ポーランドの冬は
マイナス20℃になる日もあります。
暖房なんてほぼ無いような状態です。
凍死する人も少なくありませんでした。

こちらはなんとトイレ。

ぼっとん便所。

1日2回、決められた時間にしか
トイレに行くことを許されていませんでした。

1回数秒で済ませないといけないルール。

どれだけ劣悪な環境、状況だったかが分かります。


小さい頃、読んだ『アンネの日記』。
アンネフランクが収容されたのは
このビルケナウでした。



この場所で、父親とは今生の別れとなりました。
アンネは労働可能とされ死は免れましたが
2ヶ月後、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送られ
数カ月後に、チフスにかかって亡くなってしまったそうです。



罪もない人々が
意味もなく殺されていく。

なんという惨劇・・・。

でも中谷さんはおっしゃいました。

「アウシュビッツの悲惨さばかりが際立って
ドイツ人の残虐さに焦点をあてがちだが
原爆や銃殺で殺された人、
それも同じ被害者です。」

中谷さんの言葉を受けて、
アウシュビッツの存在意義は
その残酷さを知ることだけではなく
もっと人間の根本的な・・・本質的な部分を
今の社会と結びつけて考えなければいけないのだ
と私なりに解釈しました。



中谷さん:「ナチスが冷酷な人間の集まりだったかというと
実はそうではなく、
家に帰れば普通のお父さんでした。

最大の教訓はそうしたシステムにおかれたら
人間はいとも簡単に変わってしまう。
人間を人間と思わなくなる。」




なぜ、ユダヤ人がターゲットになったか。

ドイツは第一次世界大戦の敗北後、
多額の賠償金などで
財政が悪化していました。
ヒトラーは崩壊の責任を全てユダヤ人に転嫁し
国民もまたそれに徐々に賛同していきました。

中谷さん:「想像してみてください。
産業的にも文化的にも成熟し、
民主政治を行っていたドイツという国で、
なぜこのような虐殺が行われたか。

ヒトラーは邪悪で異常な独裁者のイメージが強いですが
彼もまた民主的な選挙によって国民に選ばれたということ。
そして、ナチス軍は国際的に公表していたので、
世界中の人がこの事実を知っていながら
見て見ぬふりをしていたということ。」



アウシュビッツも国家的とはいえ、
どこにでもいるような普通の人間たちが望んだ
イデオロギーの産物なんだな。

そして、
ナチスもそうだけど、収容者間でも存在したヒエラルキー。
現代社会でも、どこにでも起きてる。
全く他人事ではない。

「自分たちの生活を守るためには必要なこと」と
思い込んでしまったら、人は「悪」に翻ってしまう。
私だって・・・、これを読んでるあなただって。



史実を知ることの重要性を
この年になって初めて実感。

中谷さんは
ご自分の意見を一切押し付けることなく
常に、
私たちが自身で考えねばならない課題を投げかけてくださいました。

アウシュヴィッツ+ビルケナウへの訪問者は
年々増えていて、
2014年は153万人と過去最高となりました。

ヨーロッパでは人権や命というテーマだけでなく、
経済発展の障害となる人種差別に
対処する学びの場として
アウシュヴィッツを見学しにくるそうです。

そしてドイツ人も多く訪れるのだとか。
そう言えば、ベルリンの一等地に
ユダヤ人の慰霊碑を作っていたのもまたドイツ人でしたね。

二度と同じ過ちを繰り返さないよう
彼らは過去に向き合っています。

私は
「日本人が加害者だった」
という目線で
戦争を考えたことはある?

例えば、隣国の問題。
慰安婦やA級戦犯などもそうだけど。
どっかで他人事のように見ていなかったか。
ちゃんと向き合ったことがあったかな?

アウシュビッツとビルケナウ見学。
私には本当に意味のあるものでした。

最後に中谷さんは言いました。
「日本の若い人たちにもっと見に来て欲しいと思っています。
二度と同じ過ちを繰り返さないために。」


収容者の方々の犠牲に意味があるものとするために
私たちは事実と向き合って
前に進んでいかねばならないと強く思いました。


本日のマグネットです。

ポーランドのクラクフで購入した
ユダヤ教徒のマグネット。

今回の旅の最大の目的。
それはタイトルにもあるように
アウシュビッツ強制収容所へ行くこと。

第二次世界大戦中に、ドイツが
人種差別的な抑圧政策のために多くの犠牲者を出した
最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所です。
負の世界遺産。

東京⇔パリのエアチケットを予約した後、
いの一番にアウシュビッツ公認で唯一の日本人ガイド、
中谷剛さんにメールをしました。

テレビや雑誌、ネット媒体にも度々出ていらっしゃる方です。

直接のメールのやり取りで
幸運にもこちらの希望日に
私たちのガイドをしてくださることになりました。

中谷さんがNGだったら行き先が変わっていたかもしれません。

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本日の旅行記には
一部、衝撃的な画像も含まれていますので
閲覧注意とさせて頂きます。
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クラクフ市内からアウシュビッツまでバスで移動。
約1時間半ほどの道のりです。

到着し、とりあえず軽くランチを取っておきました。
周辺には、小さなスナックバーと
レストランが1店舗しかありません。


待ちあわせ時間の13時50分に
入口付近で中谷さんの姿を見つけました。

もう1組も参加したので
中谷さん含め計5名で周ります。

まずは厳重なセキュリティーゲートを通る。
バッグのサイズに関しては本当に厳しく、
A4サイズの紙をバッグにあてて確認されます。
※A4サイズ以上は預けなければなりません。

いよいよ中へ。

ARBEIT MACHT FREI
「労働は自由への道」


強制収容所のスローガンとして用いていましたが、
実際は、自由になるどころか
毎日11時間、夏季はそれ以上、
死ぬまで働かされたのでした。

ARBEITの「B」が反転しているのは
被収容者のせめてもの抵抗と言われているそうです。


全てカラーとモノクロで撮影。

被収容者の音楽家に演奏させ
行進の列を乱さないようにコントロール。

入り口周辺にユダヤ人が
当時を思い出して描いたとされる絵(の写真)がありました。

どれだけ過酷だったかを
物語っています。

被収容者の収容棟は
本人たちが建てたもの。


赤レンガは1つずつ積み上げたものだそうです。
建築作業は強制労働の中でも最も厳しいものの1つで
1ヶ月~3ヶ月でほとんどの人が命を落としました。


なぜポーランドだったのか?

戦前にポーランド陸軍の宿営地があった

ここの原野が最適だと考えられました。

更に、鉄道輸送のジャンクションであり

既に通信網も整っていたから。


被収容者が植えたポプラの木が残っているところもあります。
戦後70年、こんなに高く、高く成長。


一部建物の中に入ることができます。
ここからはその展示物です。


犠牲者の数が記載されていました。

1940年から45年に、少なくとも130万人の犠牲者。
・110万人のユダヤ人
・14万~15万のポーランド人
・23000人のジブシー

被収容者の服。


収容者は体に番号を彫られました。


没収されたカバン。

赤レンガは1つずつ積み上げたものだそうです。

アウシュビッツに到着した際、
持ち物は全て没収されるのですが、
「後で自分のモノと分かるように」
と名前を書かせました。

実際は「殺されることを悟られないように。」
二度と手元に戻ることはありませんでした。

遺留品の靴。

赤レンガは1つずつ積み上げたものだそうです。

女の子のものでしょうか。
小さな赤い靴がありました。

メガネ。


そして義肢・義足までも回収されたんですね。

こんな屈辱・・・本当にひどすぎます。

希望を捨てないために持ってきた食器。

「安住の地を与える」と言われて
たいていが全財産を持ってきていたのだそう。

どんな気持ちだったのか。
私には想像がつきません・・・。

収容所に到着した時の
ユダヤ人の怯えた顔。


チクロンBの容器。

赤レンガは1つずつ積み上げたものだそうです。


この使われ方は後程。


犠牲者の方々の写真。


収容された日付と亡くなった日付が
記載されていました。

女性は髪の毛を剃られています。

そして、これはその髪の毛です。

髪の毛は撮影禁止エリアにあります。
この写真はお借りしたものです。

髪の毛を布に編み込み生産していました。


髪の毛だけではなく、金歯など
使える物は全て剥ぎ取り
金物として加工し、
市場に出して、その利益は国家資金にしました。


死を量産していた・・・ということです。

建物の周りには有刺鉄線が張り巡らされていて
高圧電流を流し、脱走を防いでいました。


自ら身を投げて自殺を図る人も…。

それだけ、この中が地獄だったということです。

監視塔の前には、止まれの看板

そのドクロのサインの先に入ると
棟から銃殺されたそうです。

この時の後ろの雲が、本当に怖かった。

このガラス窓から容赦なく射殺したそうです。

中庭にある死の壁。

多くの人が銃殺された場所。
一番小さな犠牲者は9歳のポーランド人。
ただドイツ人の子どもと遊ぼうとしただけで射殺されました。

この壁には弾痕が残っています。

ここで亡くなった方々は3千人から1万人と言われていて、
今でも献花が絶えないそうです。

両側の収容棟には目隠しの窓枠が。

他の収容者には知られないように
処刑に使った銃には消音装置をつけていたとか。

ホロコーストが行われた
ガス室と焼却炉。

建物は壊されてしまったのですが、
当時の設計図に基づいて復元されたもの。

金属製部品はオリジナルだそうです。

ガス室。

収容者には
「シャワーを浴びる」
と嘘をつき、裸にさせ
このガス室へ誘導しました。

この天井には小さなが穴があいています。

この穴から、先ほどの展示室にあった
チクロンBの缶を投げ入れます。
チクロンBは殺虫剤として登録されていますが、毒ガスです。

一度に数百名の人が詰め込まれ、
外から鍵をかけられ、
そして虐殺されました。

床から立ち上るガスから逃れるために
この穴に向かって上へ上へ
人々の遺体は山のような形になっていたそうです。

その遺体を被収容者がはぎとり、
すぐ横にある火葬場で焼きます。

何もかもが効率的すぎて言葉になりません。

指令を出すのはナチスですが、
実際に手を汚すのは、被収容者本人たち。

収容者たちにはそれぞれ役割があり
死体搬出するSS衛星隊員(特命労働隊ゾンダーコマンド)などは
食事や住まいも優遇される人もいたそうです。

精神的な満足感を与え、
暴動が起こることを抑止していたんですね。

全てがシステマチックだったわけです。
ナチスは全て綿密に計画し実行していたのでしょうね。

ルドルフ・ヘス(初代司令官)の処刑台。


第二次世界大戦中にアウシュヴィッツ強制収容所の所長だった人。
ドイツ敗戦後、戦犯として絞首刑になりました。

この後はビルケナウ強制収容所(第二収容所)へ。

本日はポーランドの古都クラクフにある
聖マリア教会のマグネットです。


昨日紹介したバルバカンと同じシリーズです。


クラクフのバルバカンとフロリアンスカ門を歩いた後は
旧市街のクラクフ中央広場でのんびりと。

リネク・グウヴヌィRynek Główny

お天気は良かったのだけど、
写真はいまいちだね。


聖マリア教会

ゴシック様式の教会で、1222年に造られました。
これはヨーロッパで第2位の高さをもつ木造彫刻で、
国宝に指定されてるそうな。

織物会館 (Sukiennice)

2階建てのルネサンス様式。

全長100メートルくらいあるって。


この1階はお土産屋さんになってますが、
午前中だったこともあり
まだオープンしていませんでした。


時間が残ったら
また来よう。



あとは、
クラクフ中央広場とその近辺の写真をアップ。

今日のブログは箸休め感覚でお願いします。w
て、手抜きじゃないやい!!



















クラクフって中々素敵な街でしょ?

そしていよいよバスの時間になりました。
バス停に向かいます。

今回の旅の
一番の目的地です。


本日、国が変わりまして
ポーランドはクラクフにあるバルバカンのマグネットです。

クラクフは
このシリーズのマグネットが多くあって
気に入ってしまったので3つも買ってしまった。
それはおいおいご紹介するとして~。

旅行記の続き。
ベルリン空港で最終のクラクフ行に搭乗しました。

エアベルリン、2×2のプロペラ機。

これが本当に怖かった!

ぐるぐる回るプロペラの横だったせいで
そりゃーもーうるさいし、
ガタガタ揺れるし、
先日のドイツ機墜落のニュースが頭をよぎって
生きた心地のしないフライトでした。
(繰り返しますが、私は飛行機が苦手です)

精神的には疲れ果てていても
なんとか無事にクラクフに到着。

到着直後、
そんなことが吹っ飛んでしまうくらいの出来事が!

バゲッジクレームでスーツケースをピックアップすると、

新品リモア×ルフトハンザのスーツケースを
エアベルリンに傷だらけのボッコボコにされた。

スーツケースだから
良いんだけどさ。
良いんだけども…。

数時間前に買ったばかりものが
こんなキズモノにされちゃうなんて、
心の準備が全然出来てなかったよって話。www

そこからの扱いが
一気に雑になったのは言うまでもありません。

エアベルリンめ!

こんなチョコでごまかされないぞ!!

ちなみにフライトは30分ほどディレイだったので、
随分遅く到着しました。

クラクフ空港からはタクシーでホテルまで。
もうぐったりしていて写真も撮り忘れちゃったな。

ホテルはHotel Wyspianskiをチョイス。


お値段も手ごろだし
街中なのでアクセスも便利だし
何より横に小型スーパーがあった!



パンやお酒もあったので非常に便利でした。
オープンは確か11:00pmまでだったかな?


さて、それでは、
さっそくお部屋に入ってみましょう。

びっくりするよ!!!


どんっ!

ツインはツインだけど
こんなフォーメーションは初めて!!爆

朝、おはよーって上半身を起こすと
まるで鏡みたいに旦那が起きて
思わず爆笑!

でもツインであればなんでもいいです。

リーズナブルだったので文句言えませんが、
やはり狭かったですね。w

そしてバスルーム。



本当に何もないです。

ボディーシャンプーから歯ブラシまで
全部持ってきていたので全然問題ありません。

もう夜も遅くなったので
急いで就寝。

次の日。
朝から、散歩がてら
まずはバスチケットを購入しに行きました。

クラクフ中央駅前にある巨大なショッピングセンター。

ガレリア・クラコフスカ

この近くにバス停があります。


ギリギリに来ても乗れるようでしたが
万が一のことを考えて
事前に予約しました。

私ってば心配症なので。

こちらが窓口。

この窓口のおばちゃん、
超感じ悪かったっす。

ポーランド人ってね、
あんまり英語が通じないんですね。

ホテルでも
ベルボーイのおじーちゃん(推定60歳)に

「深夜にお水買えるとこある?」

って訊いたら
一生懸命、トイレを指してたりね。爆
ま、確かに、
水はあるけどね顔

たまに不親切に感じるのも
昔の日本人みたいに
「英語」に対して、ちょっとした恐怖があるんだと思う。

なんていうか、みんなシャイピーポーなだけなんですね。


でも!
話し戻すけど、ここの窓口のおばちゃん。

この一番左の人!!

こいつの態度は本当にさいてーでした。
ポーランド人だからじゃない。
このおばちゃんが性格が悪いだけ。

「12時近辺発のチケットください」

って私は確かに言ったのに、
11時10分発のバスチケットたった。
※10分~20分の間隔で走ってます。

なので、

「もっと遅めのありますか?」

と訊きかえしたら、
なぜかキレて

「は?だから11時10分ので良いか、確認したじゃない!!怒怒怒」

と、「ありえない、このジャップ!」みたいなため息と
両手を広げてやれやれのポーズの後にチケットを発券し
私に向かってチケットを投げてきたっ!

はー?

これが客に対する態度~?

ドイヒー!!


しばらくイライラしてたけど、
あのババーは私の人生から

さっさとクビにすることにしたむっ


バスの時間まで市内をプチ観光。


バルバカン。円形要塞なんて珍しい形状ですね。
今日のマグネットのとこ。

隣接するフロリアンスカ門の防備を目的として、
15世紀末にゴシック様式で建造されました。

首都ワルシャワにも同じようなものがあるのだけど
そちらは第2次世界大戦で壊され復元。


クラクフのは当時のままらしい。

トルコからの侵略を防ぐための要塞だったとか。

フロリアンスカ門

13世紀に建造され唯一残された門です。

ちなみにポーランドのトラムは青でした。

赤ばっかりだったので新鮮ですね。

観光とショッピングはまだまだ続きますー。


ふー。やっとポーランドまで来たか。

旅行記もようやく半分終わりました。

引き続きよろしくお願いします。


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